ぶらりと立ち寄った島根県の足立美術館。
魯山人の展示室で出会った言葉です。
魯山人ってただのへそ曲がりのオヤジかと思っていましたが、なかなかどうしていいこと言うなあ。
「個性だとか、創作だとか、口でいうのはやすいことだが、現実に表現が物をいうようなことは、なまやさしい作業でなし得られるものではない。さあ自由なものを作ってみろと解放されたとしても、決して自由はできないものである。第一過去の人間が作った美術に充分心眼が開かなくては、かなわないことである。過去といっても千年も二千年も前からの美術、芸術に眼が利かなくては、かなわないことなのである。食器師だからというので陶器ばかり観ているぐらいの注視力では乙な器は生まれるものではない。三百年前の茶碗が作りたければ、千年前の美術が分からなくてはかなわぬものである(後略)」
「私は世間のみなが働きすぎると思う一人である。私は世間の人がなぜもっと遊ばないのかと思っている。画でも茶事でも雅事でも遊んでよいことにまで世間は働いている。なんでもよいから自分の仕事に遊ぶ人が出て来ないものかと私は待望している。
仕事に働く人は不幸だ。仕事を役目のように終えて,他のことの遊びによって自己の慰めとなす人は幸せとはいえない。政治でも実業でも遊ぶ心があって余裕があると思うのである」
嗚呼、実に耳が痛い。